アメリカからドクター論文の準備をする若い研究者が訪ねてきた。数日前までニューカレドニアで聞き取りをしてきたという。
彼が出会ったあるニッポカナックの末裔の女性は、祖父母が日本人で、兄弟はみな戦後すぐにカレドニアの人(おそらく白人)になぶり殺され、彼女が唯一の生き残りだという。その方法は残酷きわまりないのであえてここでは書かないが、私は祖父母が日本人だということに疑問を感じ、少し調べてみるとこにした。
この女性、仮にAとしよう。Aの母親がこの日本人の祖父母の娘Bになるわけだが、写真を見る限り、Bは典型的なポリネシア系で、日本人らしさは外見からまったく読み取れない。
Aが周囲の人から聞いている彼女の祖父母について公文書館の資料で調べてみると、いずれも福岡出身、祖父が出稼ぎにきて、のちに一回り以上若い祖母を花嫁として迎えたようである。祖父は1940年にヌメアの病院で死亡。祖母は1941年に日本に帰国。もしBが日本人の両親を持つのであれば、Bはまちがいなくオーストラリアのタツラ収容所に送られているし、それより前に母親が日本に一緒に連れて帰っているだろう。それに、Bの生年は1944年だから、Bがこの日本人夫婦の子供であることはありえない。
Bが祖父だと思っているこの日本人の墓がヌメアにある。おそらく彼の妻が帰国する前に建てたのであろう。(まもなく契約期間が切れるため改葬されてしまうそうだ。)
こうして考えてみると、戦時中に「ニッポン」は我々の思うところとかけはなれた意味で一人歩きしていたことが想像できる。ちょうど、鎖国時代にあらゆる白人を「オランダ人」とよんだことに似ているのではないか。
あの時代の「日本人」とはいったい何だったのだろうか。単なる差別の対象にむける呼び名のようなものだったのか、それとも白人からみたアジア人の総称だったのか。
Bは自分の両親が日本人だったと今も信じている。出生証明書を確認したことはあるのだろうか?(出生証明書は残っていないかもしれないが、、、)この頃すでに日本の領事館があったはずだから、なんらかの記録がでてくるかもしれない。しかしその事実を調べあげて、それがはたして何になるのだろうか。むしろ、あの混沌の時代をもう一度みなおすことのほうに意義があるのではないだろうか。