慰霊祭があった日からもう2ヶ月近くたってしまった。今更ではあるが、3月9日の慰霊祭のことをまとめておきたい。
朝10時から始まるセレモニーの前に、金森さんが黄色い折り鶴
を民間抑留者の墓標に置いていく作業を手伝った。意外にも、抑留者とPOWの墓標はきちんと分かれて設置されているのではないことがわかった。鶴の数の減り方から、墓標の数が思った以上に少ないことがわかり、カウラにほんとうに全員が埋葬されているのか疑いがでてきたので、埋葬リストの見直しが必要である。
10時には皆が墓地に集ってきた。まずカウラ市長が挨拶をし、南さん(串本親善大使)が串本市長の挨拶の代読のあと、民間抑留者が埋葬されていることを明示した銘板の除幕式が行われ、元抑留者最年長のエヴリンとカウラ市長が銘板にかけてあったカウラ市の布をとりのぞいた。
それからオーストラリア兵の墓地に移動して献花、その後、日本人墓地、インドネシア人墓地で簡単なセレモニーが行われた。日本人墓地では、キャンベラから日本国大使が日本人慰霊碑に最初に献花をし、その後関係者が続いた。その後、高野山天台宗のお坊さんがお経をあげた。さらに遺族の希望に応えて、個々の墓標でお経をあげた。
千葉から来ていた渡邉さんは、5つで亡くなった姪のためにたくさんのお供えを持ってきていて、殺風景な墓地は花や風車でぱあっと明るくなった。シドニーから来ていた沖さんは、インドネシアから抑留されてきた母方の大叔父さん、ブルーム、パース、日本から集まった村上 一家は祖父のため、そしてジャン=フランソワも祖父のため、マリジョーは親族のために静かに墓標の前で手を合わせていた。祈られる人も祈る人もほとんどが仏教徒ではないのだけれど、彼らが亡くなった人のために手を合わせている姿は美しかったし、多くの人が見守るなかで行われたからだろうか、その多くが感極まって泣き出した。儀式を終えると彼らは安堵したからか、とてもいい笑顔を見せた。
お経を読む横では、同時にオーストラリア人と日本人のアーティストによるパフォーマンスが繰り広げられていた。コンテンポラリーダンスと笙の音色がとてもうまくお経とからみあっていた上に、とてもフォトジェニックであった。最後は水が墓標にかけられ、そして墓標の名前をかたどりした紙がパフォーマーによって空高く舞い上がった。
パフォーマンスが終わると、皆がそれぞれ自分に関係ある人の紙を探しはじめた。私はもちろんDenzo Higaの紙を探していたのだが、私以外にもジャン=フランソワやHayのDavid夫妻もDenzo Higaを探していた。皆が亡くなった人を偲ぶながら、他者とつながっていくのがとても心地よく感じる、セレモニーを締める素晴らしいパフォーマンスだった。企画した金森さんの手腕だといえる。
13時になるとシドニー行きのバスが迎えにきたので、私もそれに乗り込んで、居残り組に窓から手をふった。もう少し皆で一緒にいたい、たぶん皆そう思っていたような気がする。

前日、シンポジウム会場で慰霊祭の流れの説明を聞く遺族たち。