真珠湾攻撃71周年のその日に、東京芸大でThe Art of Gamanを見に行った。待ち合わせたのは、永田さん(オーストラリア民間戦時抑留の研究者)、ジョーさん(オーストラリア元戦時抑留者)、洋子さん(オーストラリア元戦時抑留者)、いつものメンツである。ジョーさんは私の顔を見ると、「71年前のきょうだよ、捕らえられたんだ」と開口一番につぶやいた。
連日のNHKでの紹介もあって、会場は次々に訪れる人で盛況だった。展示品はどれも想像以上に素晴らしいクオリティ、それに展示の仕方もとても美しく、パネル類も読みやすかった。ジョーさんと洋子さんを誘ったのは、オーストラリアの収容所でも同じように何か作っていたか、この展示を見ればを思い出されるかもしれないと、淡い期待をしたからだ。だが、ふたりの答えは「こういう活動はなかった」ということだった。
その理由はふたつあるだろう。まず第一に、オーストラリアに抑留された人のほどんどが日本に強制送還されたため、必要最低限のモノ以外は廃棄せざるを得なかった。第二に、アメリカの場合、抑留者総数が圧倒的に多く、その中に芸術家(ヘンリー杉本、イサム・ノグチ)と芸術教育の専門家がいたことだ。極端に言えば、ちょっとしたカルチャーセンターかアートスクールになったということだ。その活動を牽引したのが、カリフォルニア大学バークレー校のチウラ・オバタ教授で、収容所にタンフォーラン・アートセンターを開設し、芸術プログラムを実践した。なるほど材料の選び方、参考資料(トリのブローチは日本?の鳥類図鑑から作成したと思われる)、仕上げなど、素人だけではこの水準にたどりつかないだろう。収容所において芸術家が担った(担えた)役割に感銘を受けるとともに、苦難の時にモノづくりをすることが「生きる」ことにどのような力を与えられるかを考えると、その役割を果たした人がいたことに同業者として誇りのようなものを感じた。
オーストラリアの場合、ドイツ人抑留者の中にバウハウスの出身者がいた。彼はプロであり、たくさんの絵画や版画を残している。他に子供用の玩具にも素晴らしいもの(タツラ博物館所蔵)が残っている。これはドイツ人の家族が父親と子供が別々に収容されたために、父親が離れた子供に贈り物として作ったものである。バーメラの博物館に日本人POWが残した絵や彫刻が少しあるが、ドイツ人のものとはクオリティに大きな差がある。一方、日本人(おそらくPOW)がつくった船の模型(オーストラリア戦争博物館所蔵)は実にいい出来だ。おそらく船乗りが作ったのだろう。彼らは収容所を去る時に、世話になった豪軍の兵士や近隣の人にその船を贈っている。
The Art of Gaman展には仏壇があった。しかし、仏像はない。オーストラリアの収容所には神父が来てミサが行われていた。それで救われ、改宗したPOWもいた。あの将来への不安を抱えた4−5年の間に、宗教はどのような役割を果たしたのだろう。それが疑問に残った。