コノシロ姿寿司を祝いの席でふるまっていた松本さんが書いた手紙がニューカレドニアに残っている。それは1964年、東京オリンピックで日本中が希望で沸いていた頃にカタカタで書かれたものだ。宛先は娘のヨロンドである。カタカタであればヨロンドが読めるということなのか、松本さんがカタカナしか書けなかったのかはわからない。
ニューカレドニアにはもう帰れないけれど、ママ(妻)やみんなのことを忘れたわけではない、そちらに残してきたお金を少し送ってほしい、東京オリンピックの頃にぜひ日本に来て欲しいということが書かれている。この文面から、松本さんが開戦を境にニューカレドニアの家族が直面した苦労をまったく知らないことがよくわかる。
全財産を没収され貧困に陥ったこと、夫が連れていかれ、「失われた楽園」を憶ってママがアルコールに溺れたこと、駐留していた米軍に見つかることをおそれたヨロンドが、ガラス甲板で撮影された多くの思い出に満ちた写真を廃棄してしまったこと、信頼して金を預けた友人が持ち逃げしたことなど、とうてい想像することはできなかっただろう。
ヨロンドが結婚した同じ日系二世のルネは、父方の日本の苗字を母方のフランスの苗字に変え、日系であることを隠して就職をした。二世たちはみんな、幸せだった父親のいた時代について語ることをやめてしまった。そして、戦争が終わっても父親たちが戻ってこなかった理由がわからないままだった。「父親に捨てられた」、そう理解して逆恨みする日系二世もいた。
1914年、松本さんは18歳のときにニッケル鉱山ではたらくためにニューカレドニアに出稼ぎに行った。実家はみかん農園だったと推察する。定住してからは、サン=マリー湾に面した広い土地を借りて灌漑をし、野菜や花を育て市場で売っていた。塩もつくり、家の前から船を出して漁にもよくいったそうだ。豚小屋と鶏舎があり、厩舎には馬が3頭いて、池には日本から送られてきた鯉や金魚もいた。たいへんな働き者で、メラネシア系の妻がいて3人の子供に恵まれた。
ヨロンドはいつも父親のそばにいて、父親の仕事やその友人たちのことを観察していた。大人たちがする噂話もよく覚えていた。つまり、当時は日本語がわかったのだ。敷地に建てられた離れの小屋は賭場で、日本人がよく集まり、警察が何度も取り締まりに来た。他にも鉱山経営者やあらゆる階層の日本人が訪ねてきていた。たのまれると子供も預かる、面倒見のいい人だった。
松本さんは野菜の生産者だったために、太平洋戦争が開戦しても、他の日本人より少し遅れて捕えられた。当時のニューカレドニアでは新鮮な野菜を供給するのは日本人だけだったからだ。対日拠点としてニューカレドニアに駐留した米軍や、他の連合軍で、人口は大きく増え、大量の野菜が必要だった。必需品の塩は、日本人の塩田経営者が追放されずに自宅に軟禁され塩作りを続けさせられた。
松本さんは同年5月、最後の船でオーストラリアの強制収容所に移送された。1946年2月に収容所から解放されると他の日本人と一緒に日本に強制送還された。日本への送還が決まったとき、同じキャンプに抑留されていた松本さんたち30名の日本人は、日本ではなくニューカレドニアに戻りたいと嘆願書を提出した。誰もが30年以上暮らし、家族や仕事を残してきたニューカレドニアこそが自分の住処であった。しかし、彼らの願いは聞き入れなかった(最終的に誰が決定を下したかは不明)。
ヨロンドたち二世がこの嘆願書のことを知ったのは、クイーンズランド大学の永田由利子子さんが、1996年に「Unwanted Aliens」という本を出版したことがきっかけだ。この一枚の書類の存在を知ったとき、ヨロンドたちはなにを思ったことだろう。
1946年3月、松本さんを乗せた高栄丸は浦賀に入港した。敗戦後の日本の有様にそれは驚いたことだろう。一文なしで郷里に戻ってからの苦労は、親族の助けがあったとしても想像を絶する。しばらくして結婚したが、その妻に先立たれてからは人吉に移住して開拓事業にとりくんだという。最後まで働きどおしだった松本さんは、1977年、人吉の病院で甥夫婦に見送られて81年の天寿を全うした。その脳裏にはいったいどんな景色が広がっていたことだろう。ヨロンドが娘たちと八代を訪れたのは、父親が亡くなってからだった。