ヌメアで、ペペ(仏語でおじいちゃんという意味)に久しぶりに会いました。
私の訪問にあわせて散歩から戻ったペペは、私の顔を見ると開口いちばん「ありがとう」と言いました。そしてそのまま堰を切ったように語りだしたのです。
どうして自分の父親の消息だけが長い間つかめなかったのか、ペペの秘めた苛立ちが初めて言葉になりました。いつもは寡黙なペペが強い口調で話す勢いに、メメ(仏語でおばあちゃんという意味)も同居している彼らの末娘も驚きを隠せません。皆が彼の語りに静かに集中する緊張した空気が漂っていました。
ペペは語ります。
「僕の父は、ヌメアで最初は庭仕事(たぶん野菜/農業)をしていた。それからダンベアで木炭にする木材伐採をしていたが、やがてクアの鉱山で再びニッケル鉱夫として働くようになった」
「僕はブーライユの学校の寄宿舎にいたのだけれど、休みのたびにクアにいる両親のもとにいった。当時は道らしい道もなく、馬で移動した。鉱山には他に子供はいなかったので、ジャワ人のワゴン運転手がワゴンに乗せて遊び相手になってくれた」
「父がクアで憲兵に連れていかれた頃、僕はブーライユの学校の寄宿舎にいた」
そこまで話すとペペは声なく泣き崩れました。ペペが初めて感情を剥き出しにしたのです。誰も言葉が出ない。
いつもペペが何かを話そうとすると、話に割り込んで茶化してきたメメですが、きょうの彼女は、彼のあふれた感情を誰よりも理解し共感する人でした。なぜなら彼女もまた同じように十代で日本人の父親と生き別れ、ともに大家族をささえて苦労してきたパートナーだからです。
しばらく彼の沈黙は続き、私は話題をかえました。
「お父さんとお母さんは一緒に暮らしていたの?」
「いつも一緒だったよ」
穏やかな口調に戻ったのもつかの間、ペペはまた吠えるように語り始めました。
「学校の先生にすすめられ、学校をやめて働いた。僕はまだ14歳でろくに状況もわからないまま、一日5フランで母親を養うために修理工場で油まみれになって働いてた」
1947年、ペペは仏軍の兵役中に幼なじみのメメと結婚しました。
「(日本人の夫を失った)ふたりの母親と四人の子供のために無我夢中で働いた。やがて母の友人の口利きでルノーで修理工として働くようになった。42年勤めたよ。その仕事の後、夜には漁に出て穫った魚を売った。週末もそうだった。誰かがお金を貸してくれと言っても、絶対貸さなかった。自分で働け、それが答えだった」
私は少しつっこんだ質問をしました。
「戻ってこなかったお父さんに怒りを感じたことはある?」
「ないよ」
「見捨てられたと思ったことはない?」
「まったくないよ」
それからまたペペは振り出しに戻って、父親が逮捕されたときの話をしようとしました。しかし、さっきとまったく同じところでまた声なく泣き崩れました。深く悲しいその時の記憶が、彼のなかで蘇るのでしょう。その時の記憶を我々と共有しようとしているためか、なんとか話そうと努力しているのですが、まったく言葉が出てきません。
私はペペのお父さんがペペのためにオーストラリアで買ったきた革靴の話をして、その場の雰囲気を変えようとしました。しかし、ペペは目をつむってうつむいたまま。
それからまもなくして次の約束もあったので、私はマリジョーの家に戻りました。もう帰ってきたの?とマリジョーに言われてはじめて、自分の腕時計を現地時間にあわせていなかったことに気付きました。
帰国する夜、マリジョーと最後の夕食の後片付けをしながら、ペペの話をしました。
「私が熊本から帰ってお墓参りの報告したときには、穏やかに喜んでいただけで泣き崩れたりしなかったわよ」
マリジョーの夫であるボブは、自身も戦争で父親を失っているだけに、ペペの気持ちをやさしく理解しようとしていました。ペペが初めて見せた感情、それは父親の消息、つまりどこでどう死んだか、それがわかったことでようやく出すことができたのだろうということ。
人は生き別れた人に対して果てしない未練を抱くのです。だから、どう人生を終えたのか、それは知っておくことはとても重要なことなのだと痛感しました。
ペペはまだ何かを吐き出そうとしているようです。13年来つきあいのある私は、ペペにとって信頼できる姪っ子くらいの存在なのでしょうか。それをちゃんと受けとめるために、私はまたニューカレドニアに戻ろうと思いました。