木曜から熊本です。雨の続く九州も、天気予報ではその頃には曇になっているはず(願)。
ニューカレドニアの日系人たちの親族探しは、戦後70年たった今も途切れることなくあちこちで行われています。微力ながらルーツ探しに協力してきました私にとって、今回の調査は特別。なぜなら親友で日本国名誉領事をつとめるマリジョーのお父さんルネがどんなに長い間自分の父親の消息を知りたいと願っていたかをよく知っているからです。
ことの成り行きは、マリジョーが春の叙勲を受けるためにパリの日本大使館に行くことになり、途中日本でストップオーバーし(ニューカレドニアからパリへのフライトは24時間かかるため、給油のために成田か関空か台北に一時着陸をします)、熊本まで足をのばすとメールが届いたことからはじまります。彼女は叙勲の報告を、母方の祖父の墓(熊本県八代市)に報告し、久しぶりに親族に会いたいとのことでした。私は八代で彼女に合流することにし、同時に彼女への祝福の願いをこめ、ルネの父寅喜さんのことを再度調査することにしました。今迄に何度調査しても見つけられなかった寅喜さんの消息でいたが、いろんな方のルーツ探しをするなかで身についた知恵がはたらき、今回はあっけなく、しかもルネ(現在88歳)が元気なあいだにお墓を見つけることができ安堵の気持ちでいっぱいです。
どんなふうにしたかというと、最も熊本の人が読んでいるであろう地方紙、熊本日日新聞に電話をして事情を説明し、記事を書いてほしいとお願いしました。記事を書いてもらうまでには、担当記者とけっこうなやりとりをして、歴史的背景の説明や墓探しの意味や、マリジョーのことをなど説明しました。
19日の熊日に大きな記事が出ると、その日のうちに読者であるNさんが新聞に紹介された寅喜さんの出身地に出向き、近隣で聞き取りをしてお墓を探しあててくださったと新聞社から連絡がありました。早速、電話でNさんとお話しましたところ、Nさんが好意で衝動的に探してくださったのが伝わってきました。後でわかったことですが、Nさんが訪ねていった時にはすでにTさんは新聞に記事が出ていることを、その日の早朝6時にかかってきたTさんの妹さんからの電話で知っておられました。
新聞記事をみて当事者であるTさん親族が名乗りあげてくださることを期待していたわけですが、もし連絡いただいても、Nさんのようなスピードで新聞社に連絡してくださったかは不明です。Nさんの行動の早さのおかげで後の準備に余裕ができ、大いに助かりました。
こうして親族の方のお名前がわかりましたので、今度は国会図書館関西館にある熊本の電話帳で電話番号を見つけて電話をしました。電話口出られたのはTさんの奥さんでしたが、(よくあることですが)私が何者かよくわからず、最初は少々警戒されているようでした。とりあえず簡単に事情を説明し、記事が出たことで迷惑がかかったことを詫び、マリジョーが来日したら訪問してもよいかをお聞きしました。
電話だけでは不十分ですので、23日の沖縄での戦没者追悼式に出かける前に、私はTさんに宛てて手紙を書き、寅喜さんがニューカレドニアでどのように暮らしていたか、マリジョーとTさんの関係、何故今頃探しているのか、そして私の自己紹介、そういったことをお知らせしました。マリジョーが2007年に某新聞社の取材をうけたときの記事、私の書いたテキストなども同封して、より客観的に我々のことを伝えました。手紙は21日に関空で投函するつもりでしたが、うっかりその手紙を沖縄まで持っていってしまい、遠回りしてTさんのもとに届いたのは25日になったようです。その夜Tさんから電話をいただきました。
それ以降、私のことも信用していただけたようで、Tさんとの電話では話がはずみました。
マリジョーが訪問する日には、皆さん揃って歓迎してくださるムードが伝わってきます。
しばらくお休みしていましたブログでは、熊本での様子を少しずつご報告していきたいと思います。