今回私が木曜島に出かけた目的のひとつは日本人墓地を訪れることだった。ニューカレドニアで数多くの墓地を巡ってきた私は、友人の金森マユ同様、Grave StorkerとかGrave Hunterと呼ばれている。新しい土地を訪れると、あるいは再び訪れた土地で、まず最初に足を運ぶのは墓地だ。移民の歴史を調査するのは、彼らの声をかき集める行為である。移民たちの送った人生は、墓標というかたちでこの地に残り、特別な存在感で私の前に現れる。それだけに生の声が聞けないほど時間がたってしまった今、数少ない文献以外に、墓ほどインスピレーションを得られる場所はない。
西濠洲のブルーム同様、ここの墓地に埋葬される日本人の数は無限といえる。たいていは一基ずつなめるように観察して写真を撮るのだが、誰のものかわからない墓が多過ぎ、暑い日差しのなかでそれは断念した。それでも滞在中の4日間で、朝夕、涼しい時間帯を選んで、ホテルから約20分歩いて6回足を運んだ。

1983(S58)年2月5日の朝日新聞によると、70年代にこの墓地を調査した久原修司氏(当時は新宮高校教諭)が墓の数は700基、そのうち525基についてはすでに名簿を作成しているようだ。そのうち252名が真珠採りの潜水夫で、全体の6割近くは29歳で死亡しているらしい。
私の目に留まったのは、元からゆきさんらしき女性たちの墓と子供の墓である。数は数えてはいないのでわからないが、女性たちの墓は、女性によって建てられたもの、友人であった男性ダイバー?(あるいは事実上のパートナー)によって建てられたと推察できる。子供の墓は、大きさや形態、たとえば地蔵が彫られているなど、一目でわかる。
屋良、知念といった沖縄の人の名前もすぐに目にとまった。このふたりは戦後移民だそうだ(木曜島在住、戦後沖縄移民の平川京三さん談)。
墓石のスタイルは時代によって傾向があるように思われたが、これについては撮影してきた写真をみなおして考察する必要がある
戦前、沖縄からオーストラリアに渡った先は木曜島だけだったそうだ。その木曜島へは、1921年(S10)まではゼロ、1922(T11)に初めて12人、その後1936(S11)年まで細々とつづくが、合計33人にすぎない(沖縄県史第7巻)。
沖縄人は漁業など海の仕事に長けてはいるが、深く潜るとこは苦手であったと聞く。この島での真珠貝採りにはうまくあわなかったから、移民数が伸びなかったのかもしれない。理由はもう少し調べていきたい。
前出の朝日新聞には、荒廃したこの墓地に心を痛める、現地在住の藤井富太郎さんと、木曜島を訪れた歯科医、茂木正寿さん夫妻の談が紹介されている。その後、茂木さんは木曜島に寄付をし、現在に至るまでその利子を使って墓の整備や管理が行われているそうだ(木曜島在住、ビル芝崎氏談)。
しかし、埋葬された個々の人々の名前がきちんとわかること、それが大切なような気がする。また、木曜島周辺の島々にも残る墓地(おそらく最も深い海に潜った優秀なダイバーのもの)についても、調査をする必要があるのではないだろうか。

木曜島の日本人墓地