立命館大学で開催された「ミリキタニの猫」の上映会に行ってきた。この日は2012年に亡くなったミリキタニ氏の誕生日である。
上映前に、立命館大学の米山先生、同志社大学の和泉先生のレクチャーが30分ほどあった。どちらも授業の一環で参加している学生向けに用意されたものだろうけれど、簡潔ながら充実しており、映画を見る前のいいプロローグとなる。特に、米山先生が、「この映画が映画プロデューサーの視点でまとめられた「作品」であることを理解したうえで、単に同調するだけではなく、自分なりの解釈をしてほしい」とおっしゃったのは、とてもいいまとめ方だと思った。
ミリキタニ氏はサクラメント生まれの二世。母親の出身地広島で育ち、母親が亡くなった後、18歳のときに、叔父をたよって帰米する。そこには、軍隊に入るのではなく芸術の道をすすみたいという願いがあった。院展の川合玉堂の弟子と自身はサインをしているが、日本画の腕前はプロとは言い難いもの。しかし、彼の作品はとても魅力的で、色鮮やかな生命力にあふれたものだ。なかでも、9.11を描いたドローイングは日本の地獄絵のような炎の表現が印象的だった。
ミリキタニ氏は、抑留中に米軍の調査で日本への忠誠(所謂NO-NO)を表明し、ツールレイク収容所に3年半抑留された。そこを出てからは、原爆で母方の親族が亡くなったからか、日本には戻らず、アメリカに残ることを選び、ニューヨークで富豪の家に住み込み、その世話をしていた。富豪が亡くなってからは路上生活を送るようになり、そこで猫の絵を買ったことがきっかけになり知り合った映像プロデューサのリンダ・ハッテンドーフが、少しずつ彼の生活に変化を与えていく。彼が背負った、原爆、抑留、帰米二世、そういった複雑なトラウマは、彼の反骨精神や、制作へのエネルギーの源となっており、その体験をした場所を彼女は一緒にたどっていく。
映画の展開はとても早いので、飽きることない。しかし、もうちょっと編集に「間」があっても良いのではないか。それがあれば、観る側が彼の人生を自分なりに考える余裕ができるのではないかと思った。しいていえば、ひいた画像、彼のいた環境を俯瞰するような場面がほしかった。最後はちょっとヒューマンなまとまりになっていたが、十分に戦争によって翻弄されたひとりの日本人の姿から考えさせられるものであった。
ミリキタニ氏は魅力的な頑固な大正生まれ(1920年)の男である。自身のなかの葛藤と戦いながら、アメリカに住んではいるが、アメリカ社会を否定して生きて来た。その彼が、リンダとの短い同居生活のなかで、少しずつかたくなな心が溶かし、やがて自分自身の人生に向き合うようになる。
同じ日系二世、ロジャー・シモムラ氏のキュレーションによる、国際平和ミュージアムでの展示も空間を上手につかった、とてもいいものだった。展覧会は7月20日まで。