スライドショー「失われた楽園−ニューカレドニアの日本人」(音声が流れます)
戦前のニューカレドニアの日本人の生活を、当時の写真を使って紹介しています。
音楽・編集:rimacona ©Mutsumi Tsuda
1892年(明治25年)、600名の単身日本人男性が移民会社の斡旋で、5年間の契約でニッケル鉱山で働くために仏領ニューカレドニアに旅立ちました。その数は1919年までに5575名にのぼります。
満期を迎えて日本に戻った日本人がいれば、現地の女性と所帯を持って島中に定住し、様々な仕事(菜園、塩田、商売、漁、コーヒー園、散髪屋、仕立て屋、大工、鍛冶屋など)に就いた人もいました。後者の日本人は、戦前のニューカレドニア社会に活気あふれる豊かさをもたらす存在となりました。
1941年12月8日、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃すると、連合軍である自由フランスは純血の日本人(日系一世)を敵性外国人とみなして一斉に逮捕します。その後1124人が4隻の船でオーストラリアの強制収容所に送られ、4~5年の抑留を経て、1946年には選択の余地なく日本に送還されました。(一部は1942年に捕虜交換船で帰還)
島に残った彼らの現地妻と子供は、一家の大黒柱を失った貧困と差別で、厳しい生活を強いられ、その多くがそのまま夫や父親と生き別れることになりました。一方、日本人どうしの夫婦は、その子供たちと一緒に島から追放され、今迄苦労して築いてきた財産を没収されてしまいます。親たちの無念を知らないニューカレドニア生まれの幼い子供たちは、オーストラリアのタツラ収容所で無邪気に過ごした後、初めて辿り着いた日本で敗戦後の廃墟を目の当たりにすることになったのです。
現在、人口が23万人のこの小さな島にはすでに6世が生まれ、約8000人の日系人がいると言われています。戦争の勃発によって翻弄された日本人、その理不尽な悲しい体験はいまだにほとんど知られていないのです。